今日も旅ゆく

いったりきたりの旅の記録

いさぶろう号に乗って/肥薩線紀行(熊本~吉松)

※この記事は、九州コミティア・関西コミティアで頒布した「今日も旅ゆく 肥薩線紀行ほか」の「肥薩線紀行」の一部(熊本~吉松)を加筆修正したものです。本には載せていなかった写真も掲載しています。

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 「日本三大車窓」の一つ、肥薩線矢岳真幸駅間で見られる車窓風景を求めて、8月のある土曜日、私は旅に出た。

 

 熊本駅

 観光列車「いさぶろう一号」に飛び乗る。午前8時31分発。


 JR九州の「いさぶろう」「しんぺい」号は、人吉駅と吉松駅を結ぶ観光列車としての性格が強い列車だ。一日二往復しており、一往復が熊本駅発着に延長されている。今回私が選んだ列車も熊本駅発だ。終点の吉松駅までは約3時間。


 「いさぶろう」は下り(人吉→吉松)「しんぺい」は上り(吉松→人吉)を指している。愛称の由来は、「いさぶろう」が人吉~吉松間が建設された当時の逓信大臣・山縣伊三郎、「しんぺい」が当時の鉄道院総裁・後藤新平に由来する。矢岳第一トンネルの矢岳側入り口に山縣の「天険若夷」、吉松側に後藤の「引重致遠」の扁額が残ることにちなんだものである。
 車体は深い赤色をしていて、内装はぬくもりのある木製、壁紙もお洒落で洗練されている。窓も大きく車窓を楽しむのに申し分ない列車だ。


 熊本から八代までは田園と民家を車窓に走る。私は進行方向向かって右側の席に座っていたので、遠く雲仙や島原も見えた。山は良い。しかし、天気が少しずつ怪しくなってきていた。雨こそ降らないが、完全な曇り空だった。スマホのアプリは頑なに「晴れ」と主張しているが、どう見ても空を十割雲が覆っている。福岡はあれだけ晴れていたのに、霧島連山は綺麗に見えるだろうかと不安がよぎった。
 途中、虫取り網を持った少年たちがあぜ道を走る光景を目にし、「正しい夏」を見せつけられたような気がして胸がつまる。

 そうこうしているうちに、八代駅に停車。


 八代駅から肥薩線となる。
 八代駅を出て、日本三大急流の一つ球磨川沿いを走る頃には、ぐっとローカル線の趣きとなる。川の色はエメラルドグリーン、途中アユ釣りをしている人も見かける。
 木曽川沿いを走る中央本線(西線)を思い出した。

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 球磨川を渡る橋梁も見所だ。球磨川第一橋梁・第二橋梁はともに明治41(1908)年の完成で、アメリカの技術が用いられている。石とレンガでできた橋脚と「トランケート式」という珍しい構造のトラス橋で全国にここだけしかないとのこと。「いさぶろう」号の中では、橋の歴史について解説してくれる他、橋を渡るときは徐行してくれる。(※今回の豪雨で球磨川第一橋梁・第二橋梁ともに流失してしまいました)


 球磨川と山の景色に、再び民家が現れてきたなと思っているうちに、人吉駅に到着。突然今までとは異なる街の景色になるので驚いた。城下町として栄えただけある。

 

 人吉駅には4分程の停車だった。小京都といわれ、鎌倉時代から明治時代の廃藩置県まで相良氏による統治が行われていたこの人吉という土地に興味がわいたが、今回はここが目的地ではないので、散策はできない。名残惜しさを感じながら午前10時8分、人吉駅出発。


 人吉~吉松 肥薩線熊本県八代市八代駅から、鹿児島県霧島市隼人町隼人駅まで、熊本・宮崎・鹿児島の三県にわたる路線距離124.2キロを走る鉄道路線で、明治42(1909)年11月に開通した。人吉から吉松まで、1時間をかけ峠を越える。


 人吉駅を出発してからは、列車はひたすら山を登っていく。いくつかのトンネルを抜け、まず始めに到着するのが大畑(おこば)駅だ。大畑駅には4分程の停車。
 大畑駅ループ線の途中にあり、スイッチバックを併せ持つ日本で唯一の駅である。開業当時に走っていた蒸気機関車のために設けられた信号所と給水所としての役割が大きかった駅とのこと。
 駅舎には、無数の名刺が貼り付けられている。話には聞いていたが、本当にすごい量で驚いた。神社の絵馬のようである。
 元は観光客が訪問した記念に名刺を貼り付けたものらしい。それがいつしか大畑駅に名刺を貼ると出世するなんて風に話が広まり、今に至る。噂の力は恐ろしいなと思う。
 何枚か写真を撮って、車内に戻る。大畑駅は駅を出るところからが面白い。


 列車は大畑駅をバックしながら出て、一旦停車する。運転手さんが車内を通り抜けて、進行方向の運転席に戻る。ここからループ線に入る。小さなトンネルを抜け、
300メートルの半径を描きながらループの稜線を登り切る。まさに山岳列車だ。眼下に大畑駅が小さく確認できるところで列車を一時停車してくれる。

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 ループ線スイッチバックも、急勾配を緩和させるために用いられるものである。つまり鉄道の難所だ。明治時代の人の苦労を思う。


 次の矢岳駅では5分ほどの停車。
 木造の駅舎が趣深い。矢岳駅は海抜536.9メートルに位置しており、肥薩線の最高地点にある駅である。
 吹く風もどこかさわやかだった。同じ列車に乗っている人たちがSL館に走る中、駅舎の写真を撮り、一人車内に戻る。矢岳駅を出たら日本三大車窓が見られる。ベストポジションを確保しておきたかった。
 日本三大車窓を見るなら、進行方向左側の席が良い。
 私の場合は、予約の段階で窓際の指定はできたが、左右どちらかを選ぶことができなかったので、天に任せていた。結果は反対側の席。車内は混んでいなかったので、指定席ではない、窓の大きい展望スペースを確保した。


 矢岳駅を出発した電車は、矢岳第一トンネルにさしかかった。ここは入り口に先述した「天険若夷(てんけんじゃくい)」天下の難所を平地のようにしたという意、「引重致遠(いんじゅうちえん)」重いものを遠くへ運べるという意、の石額が埋め込まれているトンネルである。

 矢岳第一トンネルの工事は難工事であった。人里離れた山奥で、資材搬入の困難に見舞われたほか、湧水が多く、運搬用の馬が溺死したというエピソードが残るほど。
 3年以上の月日をかけ、苦心の末に掘り上げたのは肥薩線最長の隧道。そしてこの矢岳第一トンネルの開通を以って、青森駅から鹿児島駅までの日本列島を縦貫する鉄道網が繋がった。


 矢岳第一トンネルを抜けると、電車が一時停車する。この旅の一番の目的である車窓風景だ。

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 懸念していた曇り空は晴れとなり、遠く霧島連山を臨むことができた。雄大な山々と、眼下にはのどかな田園風景が広がる。運が良ければ、鹿児島の桜島も見えるということだったが、あいにく霞んで見えなかった。それにしても良い景色だ。乗客も皆、写真を熱心に撮っている。停車中は窓を開けても構いませんよ、と車掌さんに言われ窓を開ける。涼しい風が頬を撫でた。


 いつまでも見ておきたいほどの景色だったが、そういうわけにもいかないので、窓を閉め再び出発。


 峠越え最後の駅、真幸(まさき)駅で再びスイッチバック肥薩線は、ループ線スイッチバックと、日本の鉄道を楽しむのに素晴らしい路線だなと改めて感じる。


 真幸駅でも5分程の停車。
 「真の幸せに入る」に通じるということで、駅には「真幸」に因んだグッズなどを地元の方が売っていた。ホームには鳴らすと幸せになるという「幸せの鐘」があり、
乗客はそこに並んでいた。
 私はそんな鐘を鳴らそうとするヤワな女ではない、と鼻を膨らまして、ホームの端にある「山津波記念石」の写真を撮りに行った。
 約八トンの巨大な石が、山津波によりこんなところへ押し流されてくるなんて、と自然災害への恐怖を改めて感じた。実際、駅周辺に集落があったそうだが、度重な
る土砂災害により住民が移転したとのこと。


 列車に戻ろうとしていたとき「幸せの鐘」に誰も並んでいないことに気がついた。時間はまだ2分程あった。

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 ちょっと幸せな人は1回、もっと幸せな人は2回、いっぱい幸せな人は3回鳴らすとされているらしい。気が付いたら、かなりの力で5回以上鳴らしていた。
 結局は私も鐘を鳴らす女だったということだ。幸せになりたかった。


 真幸駅を出発し、2番目に通るトンネルには悲しい歴史が残る。終戦直後、吉松駅から復員兵をのせた列車がトンネルを登りきれずに立ち往生した。列車内は煙が充満し、苦しさと暑さで、乗客が列車外へと避難する中、列車がバックし、56人もの犠牲者を出す事故が発生した。その復員軍人殉難碑がトンネルの側に立っている。

 

 「いさぶろう」号の終点、吉松駅には11時22分に到着。
 熊本から3時間近く列車に乗っていたが、その時間を感じさせない程楽しい鉄道の旅だった。まだ先があるなら乗っていたいくらいだ。道中、観光のポイントで解説のアナウンスも入るので、とても楽しかった。


 先人が山を切り開いて、必死の思いで作った肥薩線だが、利用者は少なく、人吉~吉松間は一日三往復しているのみである。一時期廃線も取り沙汰されていたとのことだが、JR九州が観光資源に着目したことで、観光路線としての整備が進められており、私もこうして乗ることができた。素敵な路線なので、今後も盛り上がっていってほしいし、また乗りたいと思った。

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