大学入学を機に、福岡から京都へと引っ越した。
引っ越してきた当初はまず、京都市内に存在する神社仏閣の数に驚嘆し、寺町・新京極といった繁華街の中に錦天満宮や蛸薬師堂、誠心院が当然のように紛れていることに新鮮さを感じた。
「歴史都市」京都を堪能しようと、清水寺・鹿苑寺金閣・慈照寺銀閣・京都御苑・二条城・嵐山…等といった有名スポットをあちこち巡った。
一通り有名な史跡を回り、京都での生活にも慣れてきた頃のことだ。丹波橋駅から、京阪電鉄の列車に乗る機会があった。出町柳行きの各駅停車である。
京阪電鉄を利用する際にはいつも特急を利用していたため、丹波橋の次に停車する七条までの間の駅については気にも留めたことがなかったのだが、普通列車は嫌でも停車する。丹波橋から数駅のところで、ここはどのあたりだろうと、ふと駅名標を見てみるとそこには「深草」とあった。
「深草」は非常に聞き覚えのある名前だった。大学で専攻している平安期の文学作品の中で幾度か目にしたことのある地名だったからである。
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
上野岑雄/『古今集』巻一六・哀傷・八三二
むかし、おとこありけり。深草に住みける女を、やう〱あきがたにや思ひけん、かゝる歌をよみけり。
年をへて住みこし里を出でていなばいとゞ深草野とやなりなん
女、返し、
野とならば鶉となりて鳴きをらんかりにだにやは君は来ざらむ
とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。
『伊勢物語』一二三段
夕されば野辺の秋風身に染しみて鶉鳴くなり深草の里
具体的な本文は割愛するが『源氏物語』「藤裏葉」で出てくる極楽寺や、能「通小町」の登場人物深草少将の伝説もこの地に残る。
深草には、桓武天皇・仁明天皇をはじめとして皇族の墓が多く、平安時代は貴族の別荘地であったらしい。そして和歌には「鶉」が一緒に詠みこまれた。深草は平安文学に愛された土地であった。
平安文学に見受けられる地名が、こうして現代に残っているということに、その時の私は深い感動を覚えた。
現在深草は開発が進み、京都教育大学や龍谷大学などの学校用地や住宅地となっているが、山野に目を向ければ、まだ美しい竹林や自然の風景も残っている。
実際に深草の地へ足を運んだこともある。新しく整備された大岩山の展望台から伏見区側を望めば、藤原俊成が和歌に詠み、平安時代の人々が同じように想像したであろう、寂しい深草の里の光景が自然と思い起こされた。
具体的な形のない地名ひとつをとっても、そこに平安時代の人々の心性・感性が根付いている。そして、地名を残しているということは、現代と平安時代は確かに繋がって存在している証拠になる。
今回は深草に重きを置いて話を進めたが、このような土地は勿論深草だけではない。
日本には古くから存在する地名が多く、通りの名前一つをとっても歴史を感じるものばかりだ。それらの地名は物語に織り込まれ、和歌に詠みこまれる。
その土地を舞台とした文学を紐解いていけば、そこに連綿と続く歴史・人々の生活を感じ取ることができるのは先に述べたとおりだ。そして、実際にその舞台を歩いていけば、新しい名所旧跡を発見することもできるかもしれない。
神社仏閣のように、形のあるものだけでなく、日常の中で何気なく目にしている地名・土地の中にも平安時代は確かに存在する。そこが、歴史的にはあまり重要ではない場所であったとしても、その地に纏わる物語や和歌、そこから見える人々の思いにまで意識を向けることで、歴史を読み解く一つの手掛かりを得ることも可能だろう。また、我々は手掛かりを得ると同時に、今までその地に続いた歴史を強く感じざるをえなくなる。